高齢者にとって「孤独」とは何か?

「孤独」は現代社会の大きな問題です。高齢者についても、孤独は心身の衰えを加速しやすく、また、助けが得にくいため体調急変時に放置されたり、孤独死につながったりする危険もあり、その解消は喫緊の課題となっています。

 高齢期の幸福を考えるにあたって、孤独の問題は避けては通れません。しかし、孤独を単に「1人でいること」と捉え、1人でいる人は全て「孤独」とみなして助けるべきかというとそんなに単純な話ではありません。いつも1人で街に出て、絵を描いている人、いつも1人で本を読んでいる人が決して「絵画サークルに入れなかった」「読書サークルからのけ者にされた」というわけではないからです。


 高齢期になって幸福感が上昇するのは、嫌な人と付き合ったり、気の進まない場に出ていったりしなくていいから(離脱説)だと考えると、1人でいる人を無理に交流の場に連れていくのはストレスになりかねません。1人でいる姿を見て、「孤独でかわいそうだ」と勝手な判断をして関わろうとしたり、どこかに連れ出そうとしたりするのは“大きなお世話”です。

 そもそも、誰でも「1人でいたい」という気持ちと「集団の一員でいたい」という気持ちの両方を持っていますから、一概に「1人でいるのはよくない」というのも乱暴な話です(これからの時代は「1人でいても、インターネットでつながりを持つから構わない」という人も増えていくかもしれません)。

 英国の精神科医で心理学者のアンソニー・ストー氏は著書「孤独」の中で「孤独になる能力は、自己発見と自己実現をもたらす。自分の最も深いところにある欲求、感情、衝動が自覚できる」と述べています。孤独は必ずしも悪いものではなく、孤独によって得られる価値があるというこの考え方に納得する人も多いでしょう。

 逆の例でいえば、卓球サークルに入ってワイワイと楽しく活動しているように見えても、本人はいつも仲間に気を使って疲れ切り、活動後に皆で行く喫茶店での会話に全く興味が湧かない…という場合、はた目には楽しそうでも気持ちは孤独かもしれません。

 場になじめないときに感じる孤独というのは、周りに人がいればいるほど強くなるものです。元気なうちに、万が一に備えて高齢者施設に入ったものの、そこで暮らす人たちの受け身の態度や職員のよそよそしい姿勢が嫌で、すぐに退所したくなる人が少なくないそうですが、これも似たような例といえるでしょう。

「孤独」を辞書で引くと「(1)仲間や身寄りがなく、一人ぼっちであること(2)思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと。また、そのさま」とあります。(1)は外形、(2)は内面のことです。

 いつも1人で本を読んでいる人は確かに「(1)一人ぼっち」だけれども「(2)寂しくはない」(あるいは楽しんでいる)かもしれませんし、卓球サークルに楽しみが見いだせない人は「(1)仲間はいる」けれど「(2)寂しい」かもしれません。高齢者の孤独問題の取り扱いはそう簡単ではありません。

 一方、「孤立」の意味は「一つまたは一人だけ他から離れて、つながりや助けのないこと」とあります。「孤独」に比べればこちらは判断しやすく、また、高齢者は避けるべき状況といえます。高齢になると、近いところに助けてくれる人がいることが大切です。家庭内での事故や体調の急変、災害など、いざというときに放置されかねないような環境は危険です。そうしたときに助けてくれる人がいれば、面倒な作業や手続き、力仕事なども代わってやってもらえるでしょう。

 ある高齢者住宅では毎日必ず、ラウンジに出てきて本や新聞を読んでいる男性がいます。ラウンジの近くにはスタッフが常駐しており、近くで人が行き交い、若干のにぎわいもあります。読書は家の中でもできますが、このような場にいれば安心できるのでしょう。この人は毎日1人でいますが、他の人たちから離れてはいませんし、もし何かあれば、いつでも助けを求められるような緩いつながりの中で暮らしていて、筆者には「孤立」もしていなければ「孤独」でもないように見えます。

 こう考えると、高齢者とその子が同居ではないものの、近くに住む「近居」は優れた住まい方だと思います。日常的な往来ができる範囲、いわゆる「スープの冷めない距離」に住むことです。

「近居」は高齢者にとっては、子や孫というつながりが近くにある安心があり、子や孫だから助けを求めやすいし、いつでも会って、寂しさを軽減できるという条件がそろっています。同居していると、子や孫の生活に巻き込まれてしまって、かえって孤独を感じることもあるでしょう。これが近年、近居を望む人が増えている理由かもしれません。