老いそびれる人々

私は禿げているが、別に恥ずかしくはないし、困ってもいないし、毛髪の復活を願うわけでもなく、それを隠そうとも思わない。困るというか、申し訳ないのは、周囲に気を遣わせてしまう(周囲が頭の話題を避けようとする)ことくらいだ。ときどき「まだ大丈夫ですよ」とか「前から見たら分かりませんよ」といった、どう捉えてよいか分からないフォローをしてくれる人がいるが、その妙な思いやりに苦笑してしまう。 

ハゲ友達との間では、50歳を超えても髪の毛がフサフサしている人を、「ハゲそびれ」と呼んでいる。そびれは「逸びれ」と書く。年をとれば髪の毛が少なく、細くなるのは自然なことで、そのような機会を逸失してしまった人という意味だ。身体や容貌が自然に変化していくことを是とし、フサフサの頭髪は道理にかなわない、おかしな状態だというハゲ側の強引なパラダイム転換であることは、もちろん承知しているが・・・。 

こう考えれば、正しい「ハゲのありよう」というものも見えてくる。 まず、隠してはならない。カツラをかぶるのは、機会を逸失したハゲそびれとの同化である。また、ハゲ散らかしてはならない。バーコードや一九分けと呼ばれる、横から残った髪の毛を持ってくるような髪型は見苦しく、周囲に大変な気を遣わせてしまう。ハゲは、そのままの状態を見てもらうようにするのがよい。そのために、「もう元には戻らない」という自覚が必要だ。じたばたせず、ハゲと向き合う。自立したハゲと言って良い。そんなハゲとしての堂々と凛々しい振る舞いは、次に続くハゲ予備軍に勇気を与えるだろう。 

私たち「老いの工学研究所」の視点から見れば、老いそびれている人が多い。身体や容貌の衰えを受け入れず、若ぶり、老いに抗う人達のことだ。ハゲには洗髪が楽というくらいしか良さはないが、老いには沢山の良さがある。経験や知恵があり、お金もあり、それらを使う時間も持っている。衰えはするが、健康で元気だ。実際に、要支援・要介護の認定を受けない自立した人の割合は、60歳代後半で97%、70歳代前半で94%、70歳代後半でも86%と圧倒的多数とである。このような恵まれた環境にありながら、若ぶって、老いに抗おうとするのは、老いそびれとしか言いようがない。また、老いのネガティブな面に焦点を当てるのではなく、このように肯定的に捉えようとするパラダイム転換が、決して強引だとも思えない。 

こう考えれば、正しい「老いのありよう」というものも見えてくる。まず、隠してはならない。老いを隠すのは、人として成熟せず、知恵も経験もない若者との同化である。「若いですねえ」と言われて喜ぶのは、「まだ大丈夫ですよ」とか「前から見たら分かりませんよ」と言われて安心するハゲと似たようなものである。老いは、そのまま見てもらえばよい。カツラの助けを借りる人がハゲとして自立していないのと同様、見た目の若さを取り繕ったり、若いと言われて喜んだりするのは、高齢者としての自立を欠いている。もう元に戻ることはないのである。じたばたせず、老いや齢と向き合う姿勢が重要だ。そうして高齢者が老いを楽しみ、堂々と凛々しく振る舞えば、次に続く世代も恐れずに老い、自信を持って年をとっていくことができる。 

65歳の引退後、平均的には15年も人生が残っている時代となった。この長い期間、若さに拘泥し、老いを嘆きながら生きるのは、まさに老いそびれ。ハゲそびれが増えても社会に何の影響もないが、老いそびれが増えるのは大問題である。超高齢社会が、大変暗いものになりかねないからだ。高齢者も次世代も、早いうちに老いを受け入れ、切り替え、先々を考える機会を逸してはならない。