老いゆく両親に寄り添って③ ~高齢者を取り巻く理想と現実

西澤一二(老いの工学研究所・初代理事長)

私事ですが、昨年11月に母が、そして今月4月1日に父が他界しました。寄り添う相手を亡くした喪失感には非常に大きいものがあります。「父母のためにもっとあんなことができたのではないか?」「あのとき、あんなことを言わなければ良かった。」などという想いが後から後から湧き出てきます。

それと同時に、両親がともに要介護という過程を経て亡くなったために、息子として、亡くなるまでの数年間に少しでも関われたことに安堵する気持ちもあります。そして何より、父母には、「よく頑張ったよね。お疲れ様。」と言いたいと思います。

母は、島根県の離島に生まれ、中学校卒業後、出身中学の職員を経て来阪。大手電機メーカーの社長宅で住み込み家政婦をしていた時期に父と出会い結婚しました。兄と私を出産した後、私の幼稚園入園を機に事務員として働き始め、父の定年を機に退職しています。

父は、小学校卒業後から働き始め、六人兄弟の次男でありながら、父母兄弟の生活を支えていたと聞きます。働きながら夜間の工業高校を卒業しています。その後、鋲(リベット)の加工機械を購入して独立し「西澤製作所」の立ち上げを目論んだものの頓挫。その後は旋盤技術者として、鉄工所勤務を経て繊維機械メーカーで定年を迎えています。

小学校の頃、使われることのなかった加工機械に囲まれて遊んだことが懐かしく、また、掲げられることのなかった西澤製作所の木看板についても、自分自身が経営者という立場に立った今、当時の父の気持ちはどんなであったかと胸に迫るものがあります。以前に書かせていただいたように、母は退職後パーキンソン病を発症したものの、新たにゲートボールという楽しみを見つけ、また趣味の手芸でもいろいろな作品を作っては周りに配ったり、駄洒落を言っては人を笑わせていました。一方父は、6畳の居間には不釣合いなほど大きなテレビを購入し、いつも寝転がってテレビを見るのが楽しみというような生活をしていました。その間にも、父は心筋梗塞や糖尿病等に罹患したり、脳梗塞に起因した転倒等があったものの、それらによる入院時以外は私にSOSが来ることもありませんでした。

そうした生活に変化が現れたのは、母の症状が徐々に悪化し、介護が必要になってしばらくした頃でした。きっかけは、父からの1本の電話でした。電話口からたった一言。「お父さん、もうあかんわ。」と。ただならぬものを感じ、父の元に駆けつけました。いわゆる「介護うつ」の状態でした。父は、母の介護に疲れさまざまな薬に頼っていました。精神科の専門医でない町医者が、父の求めるままに大量の精神系の薬剤を処方していました。

あわてた私は、友人の心療内科医に相談し、薬の処方を変更するとともに父を我が家に連れ帰りました。しかし薬の禁断症状でしょうか、夜中に「家に帰る。」といって暴れだした父を抱きかかえて寝かしつけたこともありました。これからどうしたらいいのだろうという不安と、父ひとりに苦しい思いをさせたという後悔の思いに涙をこらえきれず、ぐちゃぐちゃになりながら父を抱きかかえて眠ったあの夜のことは、一生忘れることはできません。

その後も、父の胃がん切除、白血病の発覚、母の転倒、大腿骨頚部骨折などが続くのですが、ヘルパーの皆さん、施設、病院の医師、看護士、介護士そのほかの皆さんには本当にお世話になりました。また、たびたび職場を抜けて迷惑をかけた職場の上司、仲間、そして、妻に対しても感謝の気持ちは言葉には言い尽くせません。病床にありながら徐々に身体が動かなくなっていく不安に耐え、最後まで明るく生きた母と、次々に襲いかかる病気に耐えながらも最後まで母の心配をし、母を追う様に亡くなった父。

私たちに、生きるということそして死を迎えるということをまさに身をもって教えてくれてありがとう。本当にお疲れ様でした。