広告大手の博報堂が、現代を「消齢化社会」と称しています。意識や好み、価値観などについて、年齢による違いが小さくなっている状態を指していて、食べ物、服装、住宅、お金、人間関係、恋愛、行事など、さまざまな側面で、世代間の考え方や行動の差異がなくなってきていると指摘しています。
具体的には、2002年から20年間の調査「生活定点」(設問数1024、博報堂生活総合研究所)で、年代による違いが大きくなったのが27項目であったのに対し、年代による違いが小さくなったのは172項目に上ったといいます。1992年からの30年間でも(比較可能な設問数は366)、年代による違いが大きくなったのが7項目。年代による違いが小さくなったのは70項目に上っています。
例えば、「将来に備えるよりも、現在をエンジョイするタイプ」は、2002年に20代(49.6%)と60代(31.8%)で17.8ポイントの差があったものが、2022年には20代(45.4%)と60代(39.9%)で5.5ポイント差に縮まりました。「ラーメンが好き」は、36.5ポイント差が15.6ポイント差に、「夫婦はどんなことがあっても離婚しない方がよいと思う」は、24.4ポイント差が7.7ポイント差になっています。
博報堂は広告の会社ですから、企業に向けて「年齢でセグメントして行うようなプロモーションは、通用しなくなってきていますよ」という結論でいいのですが(それが本当かどうかは分かりませんが)、一般にはこの現象をどう捉えればよいのでしょうか。考えてみたいと思います。
見た目の若々しい高齢者が増えて、体力や健康の面でも各種データを見ればかなり若返っているのは事実です(高齢者の若返りの実際とその理由は、拙著「なが生きしたけりゃ 居場所が9割」に詳しく書いています)。
かといって、意識や価値観まで若者のようになっていいものかどうかは考えどころです。経験や知恵・識見を蓄えたお年寄りが年の功を発揮するのではなく、若者と同じように考えて似たような行動をするなら、それが若い世代の期待に応えることになるのかどうか、高齢者の存在意義がなくなってしまわないかと不安になります。
若者の方も、30年に渡る経済の低迷を背景として、将来に希望が持ちにくく、まるで何かを悟ったような諦念や達観を持ってしまいがちになるのは分かりますが、若者が夢に向かってチャレンジをしなくなったら、社会・経済の活力は失われるでしょう。
若者のような高齢者と、年寄りのような若者が増えていけば、年代間のあつれきや違和感、ストレスは減るのでしょうが、年齢差によって生まれる多様性までが失われていく世の中が、果たしてよいのかどうか。違いがあることによる面白さ、楽しさ、広がり、各世代への期待や敬意といったものが失われていくのではないかと懸念します。
●「消齢化」で解消する「エイジズム」
ただし、「消齢化」にもいい点がありそうです。
「高齢者は弱者である」「その能力は衰える一方である」といったものは単なる印象であり、実態とは異なるエイジズム(年齢差別)です。当たり前ですが、人によるのであって、年齢という属性だけでそう決めつけるのは(口に出したり、行動に移したりしなくても)、エイジズムといえます。
「若者は無知で未熟である」というのも同じです。あるいは、年齢だけでその人の能力を決めつけたり、役割や振る舞いを期待したりする、「らしさの強要」といったこともエイジズムといっていいでしょう。
「消齢化」で、年齢による考え方や価値観の差が小さくなり、年齢だけでは人を判断できないという意識が浸透すれば、このような決めつけはおのずと消えていくでしょうから、それは歓迎すべきです。年齢を根拠にして人を判断することはできず、人によるのであって、その人をよく把握しなければ評価はできないという健全な姿勢が広がるからです。例えば、消齢化が進んでいけば、「定年退職」という明らかな年齢差別への疑問が自然に湧いてくるでしょう。若いというだけで、「経験不足」「未熟」「世間知らず」と考えてしまうのはおかしいと気付く年配者も増えてくるはずです。
こうみてくると、「消齢化」によって生じる問題は次のように考えられます。消齢化によって、「差別」や「らしさの強要」などがなくなるのはいい。しかし、それと同時に「年相応」(の特徴や強み)までがなくなっていっていいのかどうか。幼稚な年寄りと老いた若者が似たような振る舞いをする、多様性が感じられない社会に向かっていってしまう可能性があるのではないかということです。
現代は「個の時代」「多様性の時代」であるとする言説がよくありますが、本当にその方向に向かっているのかどうかという問題でもあります。エイジズムは消えたが、年相応はしっかりと残っている――。そういう社会でなければ、「個の時代」「多様性の時代」とはいえないだろうと思います。
0コメント